大学入学共通テスト(仮)なんかいらない! ボイス 山田五郎
今週の月曜日7月10日に、文部科学省が2020年度からセンター試験に変わる大学入学共通テスト(仮)の実施方針の最終案を公表しました。
これは1980年度のセンター試験開始以来の大改革なんだそうですけど、私に言わせればこれは大改悪で、受験生がかわいそう。
もういっそ共通テストなんかやめたほうがいいんじゃないかと思うわけです。
今回の一番のポイントは、英語の試験に英検とかTOEICなど民間の試験を活用することにしたことなんです。
英語の読む・聴く・書く・話すの4技能を評価するためで、共通テストの枠内だと時間的にも全てをチェックできないから、民間の試験を活用するというんですよ。
学習指導要領との整合性を満たした民間試験を文科省が選定して、受験生は高校3年生の4月から12月に最大2回まで受験できるようにするというんですけど、これはどうですか?
公平性を疑問視する声が続々上がってるんですよ。
民間の試験はいろいろあるじゃないですか。
複数の異なる試験の結果を同じ基準で判断できるのかという問題もありますけど、それ以前に何よりも、受験料がかかるわけですよ。
これ大問題でしょ。
今でさえ、国立大学1校受けるのに、センター試験3科目以上で18000円、2次試験が17000円で、合計35000円かかるんですよ。
さらにTOEICを受けたら5725円、英検だと2級で5800円、1級だと8400円ぐらいですよ。
4万円超えちゃうんですよ。
ホントにこの国の高等教育はどんだけ金かかるんだっていう感じじゃないですか。
文科省は試験の実施団体に検定料の負担軽減策を講じることを求めると言ってるんですけど、民間に赤字出させるわけにもいかないでしょ。
だから、限界ありますよ。
そうすると、結局家庭の経済事情によって、民間試験を受けられない子だとか、それから2回までの機会のうち1回しか受けられない子とか、そういう子が出てきてしまいかねないじゃないですか。
さらに、住んでる場所によっても不公平が出ますでしょ。
だって、民間の試験て、都会の方が実施される種類も回数も多いですよね。
住んでる場所でも選択肢が変わってきちゃう。
機会不均衡になる。
さらに、通ってる学校によっても、全ての学校に英語の聴くとか話すとかを教えられる先生が揃ってるわけではないじゃないですか。
やっぱり、そういった学校に通ってる子が有利になるみたいな。
家庭の経済状況、住んでる場所、通ってる学校によって、大きな不公平が生まれる可能性があるわけですよ。
これ大問題ですよね。
当然、それを心配する声は前から上がってたんですよ。
それに対する文科省の対応が、20年度から23年度までは、現行のマークシート方式と民間の試験と並存して、どっちでも受けられるようにすると。
24年度からは民間試験に完全移行という。
得意の単なる問題の先送りですよ。
何でそうまでして民間の試験を活用したいのか。
新たな天下り先を作ろうとしてるんじゃないかとか、そんなことまで勘繰りたくなるぐらい、民間試験を活用したがってるんですよ。
そもそも、英語に関して言えば、全ての大学生に英語の聴く・話すの技能は必要ないと思います。
そうすると、すぐ日本人は、他国に比べて英語の聴く・話す能力が劣ってるとか言われるんですけど、民族性とか教育の問題じゃなくて、必要性の問題だと思いますよ。
昔の受験英語の時代でも、日系の移民の人とか商社マンとか、必要に迫られれば普通に聴く・話すできてましたよ。
グローバル化だの何だの言いますけど、それでも大学で学ぶ全てのことに聴く・話す技能が求められるわけじゃないですし、卒業後全員が海外で働くわけでもないでしょ。
海外に進出できる人材とかいうけど、みんな海外に進出したら、日本に人がいなくなりますよ。
そう考えていけば、大学に進学する全ての人にとって、あった方が望ましいのは、せいぜい英語の文献を読む技能と、論文を書く技能であって、それは今までの教育でもちゃんとやれば十分身につくはずなんですね。
身についていれば、必要になった時に聴くとか話すもすぐできるようになるはずなんですよ。
実際それが出来てないことが問題なんですよ。
読む・書くがちゃんと出来てないのに、そこにさらに聴く・話すまで加えようってわけでしょ。
ますます出来なくなるだけですよ。
誤解しないで欲しいんですけど、何も日本人が英語を聴いたり話したり出来なくてもいいと言ってるわけでは全くないんですよ。
ただ全員ができる必要はないと言いたい。
やりたい人はどんどんやればいいし、そういう人がお金がかからないで存分に学べる教育環境を作るべきだということが言いたいんですよ。
そうして考えていくと、英語に限らず、そもそもこの大学入試に共通テストって必要なのかって思っちゃいますよ。
というのは、全教科に関して一定以上のレベルに達していなければ困るというのは、義務教育つまり中学までのはずでしょ。
我が国の教育システムというのは、お金のかからない義務教育で教えることさえちゃんと学んでいれば、社会人としてやっていけるということが大前提になってるわけですよ。
実際英語でも、中学で教えることを100%理解して身につけていれば、海外旅行に行ったって困らないですよ。
僕は何も特別な教育は受けていないですけど、そんなに困らないですよ。
高校や大学というのは、それを踏まえた上で、さらに自分がやりたいことだったり、得意なことだったり、という分野に関して専門的なことを学ぶために進学するところじゃないですか。
だから、もし全学生が同じ試験を受ける必要があるとしたら、それは本来中学卒業時あるいは高校受験時に行うべきで、大学入試というのはもっと専門性を重視して、それぞれの大学の特性に合わせた試験にした方がいいんじゃないかという気がするんです。
実際のところ、1979年僕らの次の年から共通一次試験が導入されたんですけど、それ以前って、各大学がそれぞれ独自の試験をやってたじゃないですか。
だから赤本という傾向と対策なんていう本もあったもんじゃないですか。
でもあの時代の方が、大学生の学力のレベルって高かったと思いますし、受験勉強もやりやすかったと思いますよ。
今のセンター試験の方がよっぽど必要のない知識の詰め込みしなきゃいけないことが多いですし、大変だと思いますね。
結果、学生の個性を殺してますし、手間もお金も掛けさせることになってるような気がするんですよ。
その上さらに、全員が必要なわけでもない英語の聴く・話すの技能まで身につけろってね、さらに受験料も増えるわけ。
一体どんだけ負担かけるんだっていう感じで、そんな共通テストホントに必要?と思います。
文科省のやることって、国が全部用意してやるから、みんながそれをやると幸せになるんだ、という考え方なんですよ。
そうじゃなくて、自分はこれを勉強したいんだという、その自主性を助けてやる。
大学側もこれを教えたいんだという、それぞれの自主性を尊重して、それをバックアップするのが文科省の仕事なんじゃないかと思うんですよ。
ここの大学のこの先生のところでこれをやりたいといって行くのが本来の大学進学じゃないですか。
それが今、単に難易度順にどこかに入れればいいやっていう感じになちゃってて、これは共通試験という発想が、こういう現状を作っているひとつの原因じゃないかなと思います。